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疎開先での庄内弁に興味を持つ子どもだった。
タイ留学を経て、歴史や文化研究への情熱が湧いた。
終戦の年の1945年、私は旧制中学の3年生でした。東京生まれでしたが、戦災で家が焼けて山形県酒田市に疎開していたのです。そのときに東京以外のカルチャーと初めて出会ったのですが、庄内弁が音韻的に非常に面白い方言だな、と思った記憶があります。例えば百円の「ひゃ」が「HYA」でも「FYA」でもない、アルファベットでは表現できない両唇(上下の唇)による摩擦音だったんですね。言葉は地域の文化を反映して面白いな、と。実際、「あの頃から言語にすごく興味をもっていたね」と、当時一緒に疎開していた従兄弟から後になって聞きました。だから言語学を好きになる下地が私の中にすでにあったのでしょう。
戦後は、東京に戻って旧制高校(第一早稲田高等学院理科)に入り、その後、新制大学に切り替わって早稲田大の文学部で学ぶことに。教育学部に非常勤講師として来ていた小林英夫先生という言語学者と出会い、本格的に興味を覚えたのです。
小林先生が「君はアジアの言語をやったらどうだ」と。言語学を本気でやる気なら、退路を断てという助言だなと解釈しました。当時、マレー語もいいかなと思っていたけれど、もっと人が読めない言語が面白いだろう、都合の悪いことを手帳に書くにも便利かな(笑)と。だから、割りと主体性なく「タイ語」を選んだのです。 |